Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

【2】

町屋2




*「生存とテクノロジーを巡る覚書.6」[2005.4.22.記述分]

先に、私たちが想定した個人の記述について、「何らかの判断へと至る道を見失った、揺れ動く個の生存の経験」という解釈を行なったが、この解釈は、先の記述が行なわれたその段階に限ってのものである。この意味において、この「何らかの判断へと至る道を見失った」という表現は、やや過剰なものであったと言えるかもしれない。と言うのも、さらにこの個人が、先の「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではいか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述に引き続いて、冒頭に提示したテーマ文2を受けて、さらに次のような記述を行なったという想定が可能であるからだ。例えば、「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」といった記述である。ここで再び、テーマ文2を提示することにしよう。
テーマ文2:<さっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>
さて、さきの記述の表現はやや分かりにくいが、少なくてもここには、これまでには見られなかった、「技術的に作られた生」は必ずしも完璧ではないのではないかという懐疑の意識が発生している。これは、テーマ文に対する懐疑的な文脈の発生として捉えることが可能である。ここで重要なのは、このような文脈の発生という過程が、個人がテーマ文と向き合う中で一連の記述を行なっていく過程それ自体でもある、ということである。先に、「この解釈は、先の記述が行なわれたその段階に限ってのものである」と述べたのは、こういった文脈の発生過程を考慮したからである。
さらに、この個人によって、遺伝子改造をも含む生殖技術が、社会的・文化的に言わば世代間連鎖する可能性も着目されている。すなわち、この連鎖によって、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という「必要性」が強制力として作用する可能性が認識されている。ここには、「個々人の選択」という事態に対する再帰的な(メタレベルの)認識の発生が見られる。言い換えれば、ここでは、私たち個々人が、いったん遺伝子改造という技術によって「技術的に作られた生(子ども)」を生み出してしまえば、そうして生み出された子どもは(さらにはそれ以外の社会の成員も)、技術的な子どもの生産という「強制力を持った必要性」による支配あるいは制御のもとへと組み込まれるのではないかという認識が発生している。
以上のような記述を想定することによって、ある個人が「何らかの判断へと至る道」が形成されていく無意識の過程を同時に想定することが可能になる。ある一つの記述の断面においては明確な文脈が不在であるように見えても、その断面がさらに別の記述へと接続していく展開過程を追跡することにおいて、何らかの文脈の生成過程を垣間見ることがあり得るのである。
*「生存とテクノロジーを巡る覚書.7」[2005.4.26-4.28.記述分]
先に、「ある個人が何らかの判断へと至る道が形成されていく無意識の過程」という表現を用いた。この表現は、個人が何らかの判断や認識にいたる過程は必ずしも意識化されないと読むことができる。また、こうした無意識の過程を通じて得られた判断や認識は、そうした判断や認識を表出する発話や記述がなされた後ですら、必ずしも意識化されないと読むこともできる。
だが、この同じ個人が無意識の過程を意識化していく過程も想定できる。言い換えれば、ある個人が何らかの判断や認識へといたる無意識の過程が、同時に、この個人にとって何らかの判断や認識へといたる道の意識化過程となる。すなわち、ある個人が何らかの判断や認識を形成していく無意識の過程は、この個人がその判断や認識を意識化していく過程でもあるということだ。先の事例においては、これは、「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」といった記述の生成過程において、またそうした記述の生成過程として想定された。
だが、ある個人の判断や認識の無意識的な形成過程であり、同時に意識化の過程でもあるこうした過程は、必ずしも一定の方向を持ったものではない。言い換えれば、この過程は、ある一定の方向へと向かって、常に一層高い意識化の段階を経ていくといった過程ではない。そのようなヘーゲル的な「精神の現象学」はここには存在しない。また、無意識の過程や意識化の過程の基底となるような「主体」も想定されていない。
他方、ある判断や認識へといたる意識化の過程が、同時に、ある別の判断や認識へと向かう無意識の過程へと変容していくこともあり得る。この変容過程を、ある別の判断や認識へと向かって分岐する創発的な過程として考えることができる。この過程は、ある判断や認識の無意識の形成過程であり、同時にその意識化の過程であり、さらに他の判断や認識へと分岐していく無意識の創発過程である。
さて、先に想定した個人が、「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」という記述に引き続いて、次のような記述を行ったと想定しよう。それは、「生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」という記述である。
先に、この個人は、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性を認識したのではないかという分析を行った。その際、この個人がこうした認識をどの程度意識化し得ていたのかについては想定されていなかった。だが、もしこの個人がこうした認識を得たのであれば、この認識を形成した意識的・無意識的な過程が、同時に、「ある別の判断や認識へと向かう無意識の過程へと変容していく」何らかのきっかけになったとも言える。すなわち、この個人が、「生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」という「ある別の判断や認識」へと向かったきっかけは、先に見た技術的な力に関する認識の意識化であるとも言えよう。
とは言え、私たちは、私たちを含む個々人がある判断や認識へといたる意識化の過程が、同時に、ある別の判断や認識へと向かう無意識の過程へと分岐し変容していくという事態を、何らかの因果的関係のもとで認識する力を持っていない。私たちは、生成された個々の判断または認識(の過程)に関してはともかく、判断または認識の生成過程自体に関する同時並行的なメタレベルの認識を持ち得ない。また、複数の判断または認識の生成過程が分岐しつつあったとしても、それら生成過程相互の関係へといたる認識を持ち得ない。先の「個人がその判断や認識を意識化していく過程」という表現で述べられていたのは、結果として得られた判断や認識から想定した意識化過程に過ぎない。私たちにとって、ある判断や認識の生成過程と、ある別の判断や認識の生成過程とは、何らかの偶然的な創発過程としてのみ互いに関係づけられている。ある判断や認識の生成が他の判断や認識の生成の「きっかけ」となるという事態は、任意の個人にとって予測不可能な出来事である。
「生きるということについて、生きること以上の欲はない」という記述は、それ以上の分析が困難なものとして生成している。ここで「生きること以上の欲はない」というその欲望は、どの程度普遍的なものなのか。例えば、生殖細胞の遺伝子改変を不可避的に伴う「治療」をこの欲望は受容するのか。また、ここでの「生きること=欲」は、「何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康な生」を求めて、高度な技術を生み出したり利用したりするものなのか。
さらに、この記述は「技術的に作られた生」に関する直前の記述とどのような文脈を形成しているのか。この個人が、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性を認識したとするなら、この認識が「きっかけ」となって、そうした強制力が「生きるということ」そのものを貫く欲望=力として捉え返されたのか。
だが、ここでこれらの問いに対して明確な答えを探ることは困難である。この分析の困難さは、先に見た「つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」という記述に関して見た分析の困難さと共鳴している。
これまで見てきた、「ひとつの生に対して純粋に受けること(の大切さ)」、「技術的に作られた生(の完璧さに対する懐疑)」、「生きること以上の欲はない」といったそれぞれの判断や認識(を表出する記述)は、一定の文脈を形成しているというよりも、むしろそれぞれが新たに分岐した過程において創発されたと捉えることができる。しかし、このことは、いかなる文脈の想定も不可能であるということではない。先に述べたように、その都度何らかの無意識の文脈の形成過程が想定されているし、またそうした文脈の意識化過程も同様に想定されている。だが、この文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列(システム)として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である。これまでの分析によって、このことが明らかになった。
*「生存とテクノロジーを巡る覚書.8」[2005.5.3.記述分]
 前回の「文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列(システム)として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である」という分析結果は、あくまでも当該の分析対象に関する暫定的なものであった。また、直ちに普遍化可能なものとして得られたのでもなかった。しかし、この分析結果を普遍化する道もあり得る。実際、これまでのほぼ全ての個々の分析が、こうした認識を示唆していたと言える。文脈の生成は、優れて無意識的・仮想的なものであり、同時に意識化され得るものであった。だが、それだけに、何らかの文脈の生成は、「この私にとってリアルなもの」である。それは、脳科学者の茂木健一郎氏の表現を借りるなら、「この私というクオリア」の生成である。無意識的・仮想的なものであり、同時に意識化され得るというこの文脈の二重性が、私たちの生存の根底において見出された。なお、茂木 健一郎氏は、 『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』(PHP,2005.)において、以下のように述べている。
「偶有性(contingency)は、硬い因果的連鎖とは異なる概念であることに注意しなければならない。硬い因果的連鎖は、コントロール可能なシステムを生む。偶有性は、系が完全にはコントロール不可能なことを認めた上で、それでもそこに有機的な秩序を自己形成するための概念装置なのである」(p.112.)
「創造性を支える文脈とは、すなわち、自らの置かれた生の現場を「自分のこととして」一人称的に引き受ける文脈のことである。そこには、こざかしい批評も、流通性、交換性への顧慮も本来的にはあり得ない。他でもない、かけがえのない「この私」に関する文脈だからである」(P.187.)
 さて、ここしばらく分析を続けてきた、先に想定した個人の分析は、実はまだ終了してはいない。ここで、さらに次の想定を行う。すなわち、先の個人が、冒頭に提示したテーマ文3に対して、次のような記述で応答したと想定しよう。
なお、テーマ文3とは、<個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになる(中略)治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>というものであった。
これに対する想定された個人の応答とは、「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる。しかし、親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない。技術的なことを加えるよりその選択もありではないかと思う」である。
ここには、「障害を持った生を自ら肯定すること」への着目が見られる。こうした着目が可能であること自体、このような個人の生に対する肯定的態度の現われであると言える。だが、他方、障害を持つ本人による肯定とは別に、親の選択としては否定できない(「その選択もありではないか」)という認識も見られる。
ところで、この「その選択もありではないか」という認識が生じた文脈は、この個人によってかなりの程度意識化されていると思われる。そして、この文脈の意識化は、これまでの分析過程において明らかになった意識化過程の所産であろう。この文脈は、次のような過程において意識化されてきたと考えられる。
まず、ここに到って、技術的に作られた生に対する「懐疑」の意識化が高まっている。そのことが、「技術的なことを加えるより」という表現に現れている。ここで、「技術的なことを加える」とは、生それ自体の操作としての遺伝子改造である。遺伝子改造によってもたらされる、技術的に作られた生に対する懐疑の意識化が進むとともに、それへの負の価値付けがもたらされる。そして遺伝子改造との対比において、先の「親の選択としては否定できない(「その選択もありではないか」)という認識」が生成されたと言える。
ここで直ちに気づくのは、「遺伝子改造という技術的な付加よりも受精卵を選別・廃棄することの方がまだしも許容され得る」という判断または認識が技術の肯定しか意味しないということが、この個人によって認識されてはいないのではないか、ということである。実際、そのレベルまでの認識はここには無い。
だが、こういった意識化のあり方、またはこういった文脈の形成過程は、かなりありふれたものであると考えられる。先に、「文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列(システム)として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である」という分析結果が普遍化可能ではないかと述べた。この仮説は、今見た意識化過程あるいは文脈の形成過程が、かなりありふれたものであろうという仮説と呼応している。「この私の文脈」の整合的な認識が困難であるからこそ、「遺伝子改造よりも受精卵の選別・廃棄の方がまだしも許容され得る」という認識がありふれたものとして生まれるのである。
言うまでもないが、もし想定された個人が、自らの全認識過程を整合的なシステムとして意識化していたとすれば、遺伝子改造も受精卵の選別・廃棄も同じ技術の地平において整合的に位置づけられたはずである。従って、前者よりまだしも後者が許容され得るという認識は、それ自体矛盾をはらむものとして鋭く意識化されたはずである。
だが、これも言うまでもないことだが、事態はこのような単純化を許すものではない。まず、この個人が、上述の「矛盾」を認識し得たかそれとも認識し得なかったかという単純な二者択一は成立しない。その意味で、本来ここで素朴な意識(認識)の矛盾を想定することはできない。先の個人は、何らかの文脈の形成過程において、すでに上記両者の選択肢が、ともに技術的な生命の選別・加工であることを意識化または認識しているとも言えるのではないか。その上で、「親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない」と記述しているのではないか。
すなわち、「親としての不安」が抹消不可能であるというある意味で論理を超えた「事実」、そしてそういった「事実」に直面した個人が、「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択を行うという「事実」を、何らかの「価値」に解消することなく受け止めている。その上で、個人またはカップルの選択行為の「事実」を「完全否定できない」としているのである。
なお、以前考察したように、この「事実」は、こういった選択行為が、その遂行過程において、個人またはカップルの「価値観」を同時に成立させるという「事実」をも含む。
 この個人の応答を、ある種の科学的な分析資料として捉え、例えば「アンビバレントまたは葛藤タイプ」などと分類することは容易である。だが、こうした応答を、その文脈の生成過程において捉え返す必要がある。その作業によって、これまでの科学的分析において単純に判断不能タイプ等として位置づけられてきた資料の基底をなす「無意識」の文脈の生成過程があらためて分析可能になるだろう。「無意識」の文脈の生成過程は、いわば考古学的な、絶えず流動する地層のシステムとして、ある個人の想定された「言表行為」の連鎖において掘り起こされていくことになる。
 ある個人の、すでに行われてしまった「言表行為」の連鎖が位置する文脈を、残されたその個人の言表群の分析によって考古学的に再構成すること、フーコーの「知の考古学」以来、いまだ方法論的に確立されていないこの作業が、現在求められている。この「言表分析」の方法論を精錬し仕上げていく過程で、例えば茂木健一郎氏らが取り組んでいる脳神経科学をベースにした認識・洞察・質的直観(クオリア)の偶発的創造(創発)過程の研究等の方法論との統合も、探究のターゲットとして構想され得るだろう。
「生存とテクノロジーを巡る覚書.9」[2005. 5.4-5.5 & 5.9-5.10記述分]
次に、テーマ文1に対して、ある個人が「性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である」という記述を行ったと想定する。この記述は、他の記述との関連を考慮せずに、これのみを見るなら、テーマ文に対して明確に懐疑的な構えを表現していると言える。だが、ここでこの個人が、「性の問題」という言葉にどのような意味を込めているのか、また、もしそのようなものがあるなら、これがどのような個人的経験をベースにした言葉なのかは分らない。
遺伝子改造は、不可避的に「性の問題」への介入を伴うと考えることは可能である。また、そういった考え方に反論することも不可能ではない。だが、ここでは「性の問題」という言葉の含意が判然としない。そうである以上、「色々な意味で危険である」という言葉が、単に遺伝子改造一般に対する懐疑ではなく、さらに批判的または否定的なものであると言い切ることは難しい。従って、上記の記述のみから出発したこれ以上の分析は困難である。
さらに、この個人が、テーマ文2に対して、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子供に対しては、反対であるが、自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった」という記述を行ったと想定する。
テーマ文2に対するこれらの記述に、比較的素直な解釈をしてみよう。まず、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり」は、人の属性の序列化に対して批判的であり、これら属性を「個性」として受容し肯定している。だが、ここには「自分の子供に対しては」という限定がある。また、「よい意味でも悪い意味でも」という表現には、属性を序列化する何らかの価値観の反映を見ることもできる。
すると、「自分の子供に対しては」属性の技術的な「改造」、さらには属性を序列化する価値観に対して「反対である」という「解釈」は、いったい何を理解したことになるのか。確かに、「自分の子供に対しては」、技術的操作及びそのベースとなる価値観に対する批判的な構えが一貫している。だが、「自分の子供に対しては」という限定のもとで、いったいどのような文脈が生成しているのか。それを分析するためには、さらに後続する記述を参照する必要がある。
先に見たように、その記述とは、「自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった」である。すなわち、「自分個人」に対しては、遺伝子改造を肯定している。さらに、「遺伝子改造をして欲しかった」という欲望を自覚してさえいる。「自分の子ども」と「自分個人」という両者に対する相反する構えが、このように一つの記述へと接続されていることは注目に値する。
こうした記述に対する最も単純な「解釈」は、「この事例は典型的に遺伝子改造に対してアンビバレントまたは葛藤的なタイプである。少なくても一貫した批判の原則や理念、考え方はここには存在しない」といったものであろう。だが、このような「解釈」によっては、まだほとんど何も解明されていない。解明されていないということを、「アンビバレントまたは葛藤的なタイプ」というラベリングによって確認すること自体は、とくに批判されるべきことではない。さらに、これら記述相互の関係性を分析する必要がある。
それでは、テーマ文1に対する「性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である」という記述は、テーマ文2に対する「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子供に対しては、反対であるが、自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった」という記述とどのような文脈を形成しているのか。
ここでの文脈の生成に関して、一つの仮説を考えることができる。それは、「自分の子供に対しては」という限定が、先に想定した個人にとっての、自分の子供として想定されているが、自分とは異なる存在である子どもの他者性に対する無意識的な顧慮を表現している、というものである。一見当然にも思えるが、この個人にとって、「自分自身」に対しては、この顧慮は生じていはいない。この顧慮が生じる他者としての子供に対しては、遺伝子改造は行うべきではないということである。だが、それはいったいどういうことなのか。また、この無意識的な他者性への顧慮に、先の「性の問題」がどのように関わるのか。
だが、以上のように考えたとしても、「性の問題」という言葉の含意が判然としない以上、これら記述が形成している文脈の分析は依然として困難である。そもそも、ここでは「性の問題」は十分に考えられていない。そのことは、次の事態がはらむ決定的な問題がここで考えられている形跡がないことからも推測される。
それは、他者性に対する顧慮の必要が無いとされているために肯定されている、「自分自身に対する遺伝子改造」が行われた後で、この個人が、自らの改変された遺伝子を残す形で子供を産むという事態である。その場合、当然のことながら、この個人の改変された遺伝情報がその子供へと、さらにはその過程がどこかでストップしない限り、世代を通じて継続して産まれていく子孫に継承されていくという問題である。「性の問題に科学による手が加わること」が考えられるとき、その究極の事態に関わるこの問題が、何らかの文脈形成過程においてリンクしてくるはずである。
この個人にとっての「他者性への顧慮」は、文脈形成の可能性を探るために、単に仮説的に想定されたものであった。だが、この仮説は、上記の分析において、「性の問題」とリンクしたものとして理解可能な文脈を形成してはいなかった。
次に、この個人に関して、テーマ文3に対する次のような記述を想定する。それは、「ある意味では賛成であるが、非常に危険な思想であると思う。命という事の根源をもっと、慎重に考えてほしい」というものである。
上記の分析が困難に遭遇したのは、とりわけ「性の問題」という表現がブラックボックスになっていたからであった。ここでも、「危険な」と「慎重に」の基準、「ある意味」や「命という事の根源」という表現の含意が悉くブラックボックス化している。このような場合、分析は固い壁に遭遇することになる。

Copyright.©, Nagasawa Mamoru(永澤 護),All Right Reserved.


© Rakuten Group, Inc.